青春時代からの腰の痛みと、
いま、極上のリラックス
なにが趣味かと聞かれたら。僕は、座っていることが好き、と答える。
おいおい、それは好きな食べ物がなにかと問われて「ご飯が好き」と答えるようなもんだろう。そんな味気ない答えじゃなくて、座ってなにをするが好きなんだい。
そう突っ込まれたとしても、依然、僕はこう答えたい。
「座っているのが好きなんだ」
座って音楽を聴いたり本を読んだり画集を眺めたりするのだって大好きだ。だけど、なんにも気にせず心ゆくまで、ただずっと座っていられることの素晴らしさを、僕がどれだけ噛み締めているかってことなのだ。
大人になってよかったとつくづく思うのは、座ってのんびりしていられるとき。まだ隠居の年じゃあない。41歳、働き盛り。なぜこんなにも感慨を持って座ることについてを語るのか。その理由は僕が高校生の頃まで遡る。
僕は、10代の青春真っただ中の頃からずっと腰が痛かった。
二度と戻らない青春を思い出せば 「ああ、この日もこうやって腰が痛くなったなあ」という想いが、僕の胸、いや、腰にじんわりと差し込む。その度に、さらに噛みしめるのだ。「もう少ししたら、一度立ち上がらないとやばいな」などと野暮なことを思わずに、いまこうして、ソファに座ってただこの時に浸っていられることの素晴らしさってものを。
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腰痛持ちは精神的に疲れたときにも「まっさきに腰が痛くなる」と知ったのは、社会人になって仕事が本格的におもしろくなりだした頃だ。それまでは四つん這いになって腕を伸ばし、脇や背中を伸ばす程度だったストレッチを、全身くまなくやるようになった。Youtubeで「ストレッチ」と検索して、毎日1時間ほど、かける。
日中は工事業という職業柄、重たいものを運び電柱によじ登って作業をすることもある。肉体をせっせと動かすことが多く、きちんと労ってやらないと僕の腰はたちまちヘソを曲げ(腰なのに)、いつ爆発するかわからない。
高校時代、自転車で片道40分をかけて学校に通っていたのだが、その時の僕の姿勢がおかしかったのか悪かったのか、なんなのか。蓄積された痛みに我慢できなくなった僕の腰は、ある日突然「おい、もっと大事にしろ」と抗議してきた。その日から僕とこの癇癪持ちの腰痛は、もう長い時をともに過ごしている。
機嫌を取るように1日何度もさすってやる。僕の体の一部であるが、僕の意思がまったく通じないので「なにか違う生き物が僕の腰に宿っている」と思うようにしている。
頼むから縁を切らせてくれ、と願掛けを試したこともある。マラソンを趣味にしていたときだ。ハードなトレーニングをこなしながら各種大会に出ていた僕に痺れを切らしたのか、大事なレースの日に僕の腰痛はたびたび大癇癪を起こした。いまでも好きでたまに走るのだが、10キロほど走った頃に痛くなるとほんとうにしんどい。引き返すのにも来た距離を戻らなければならないので「ああ、タクシーを呼びたい」と思いながらなんとか踏ん張る(時々、呼んでしまう)。
腰の付け根に痛みがきたら最悪の報せだ。座れば片足が痺れ、深く座れば起き上がるのにも苦労する。靴下も立ったまま履けない状態になってしまうのだ。
青春時代から大人になってもそんなふうに自分の腰とつき合ってきた僕の憧れは、「ゆっくり座ってくつろぐこと」だった。読んでいる本の展開がクライマックスだろうと僕は僕の腰のターニングポイントが気になってしまうことなどに、ほとほと悲しくなっていた。
素敵なソファにたっぷりと腰をかけても、しばらくすると座骨がじわじわ痛くなり、合わなければ力を入れて立つこともしんどくなる。いい大人になったらいいソファで優雅に…と考えていたのに、マラソンの頃の恨みなのか、腰痛はなかなかそれを許してはくれなかった。
だから、NOYESのソファに出会ったときには僕がどれだけ感激し、うれしかったか。いや、僕だけじゃない。僕は、僕の腰痛が「これならいいぞ」というのをはっきりと聞いた(感じた)。家から近い家具店は行き尽くし、遠方に出かければ必ずソファを探してきたなかで、「ああ、あともう少しだけ座面がかたかったら」とか、そういうことばかりだったのに。
座った瞬間、違和感が1つもなかった。ショールームで腰掛けると、ぼや~っと音楽を楽しむ自分まで想像できてしまった。これしかない。座り心地を左右するすべての素材を最上級にしてもらう。高密度ウレタン使用、というやつにした。
実のところ、奥さんは「わたしは、ナチュラルな木製のベンチ風のがよかった」とぼやいていたけれど、さすがに僕の腰にベンチ風は危ないとわかってくれて、布地やソファの脚の部分への “こだわり権” を譲渡することで承認してもらった(ベンチ風推しだったことなどどこ吹く風、いまや僕と同じくらい気に入っている)。
休みの日、僕は腰痛になんの気兼ねもせずソファに座ってゆっくりと過ごしている。ただこうして座っていられることの喜びを噛み締め、思う。大人になってよかった、と。腰が痛みはじめた10代の僕は、時間を気にせず座っていつまでもぼんやりしていても座骨が痛まない、なんて想像もしていなかったろう。大丈夫だ、と言ってやりたい。いつかかならず、至高のリラックスができるから。山を登りきったあとのなんてことのない水のように、ただそれだけで極上なのだ。
ソファのまわりには、いくつかアートピースを置くことにした。1つは、僕が幼い頃から実家で鑑賞していたヒロ・ヤマガタの作品。大の絵画好きだった父親が残してくれたものだ。部屋、廊下、階段脇、いたる所に絵画が飾られていた家だったが、この作品のことはよく覚えている。小学生の頃だろうか。実家にあった革製のソファで遊んでいたら、びりっと破いてしまった。「あ!しまった!」と顔を上げた目の前にあったのがこの絵だったのだ。 両親もなかなか手が回らずにヒビだらけになっていたソファを一番最初に破いたのは僕だった。怒られるのが嫌で知らんぷりを通し、いまでも僕とこの絵だけの秘密だ。
このソファ、腰と同じだけしっかりメンテナンスしていかないとな、と思う。なんたって僕の癇癪持ちの腰痛と長い時間うまくやってくれるのは、いまのところこのソファしかないのだから。一番のお気に入りのレコード、ジョン・コルトレーンのモーメンツ・ノーティスをかけながら、あともうしばらくはここに座っていよう。